共依存的恋愛心理とは?恋愛の苦しい愛から抜け出せない人の愛情

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共依存的恋愛

博子はいわゆるキャリアウーマンで、若くしてある一流企業の広報課の課長を務めている。

ヒモ男との恋愛を繰り返す博子(33 歳 会社員)

ビジネス上での完璧といえる敏腕さとは裏腹に、こと恋愛に関しては、どうしてもうまくいかない。周囲から見ても、「彼女ほどの人がなぜこんな相手と?」と疑問を持たざるを得ないような恋愛を繰り返しているのである。

たとえば、現在同棲中の恋人だ。話を聞く限りでは、彼というのは「酒とギャンブルに溺れるヒモ男」をそのまま絵に描いたような人物だ。彼女と同じ歳だが、どんな仕事をしても長続きせず、現在も失業中で、金銭的な面はすべて彼女が面倒を見ている。そもそも同棲と言っても決してロマンチックなものではなく、彼の貯金が底をついたため、彼女の部屋に無理やり転がりこんできたというほうが正しい。生活費の一切を彼女が支払うだけでなく、彼女にお小遣いをせびっては酒やギャンブルにつぎ込むという日々を送っている。

殴られても別れられない百合(22 歳 大学生)

百合はもう、新しい病院をネットで探すことにも、また病院に行くたびに新たな嘘を考え
なければならないことにもほとほと疲れ果ててしまった。いっそ死ぬまで殴ってくれたほうが、よっぽどラクになれるかもしれない……。

彼女の体は、恋人から受ける暴力の数々で常に傷だらけになっている。  二年前からつきあっている彼氏というのは、「キレたら止まらない」タイプで、何か気に入らないことがあるたびに(彼女のささいな言動や行動が原因という場合もあるし、彼女にまったく関係がないことでイライラしていた場合もある) 彼女を殴る、時には蹴るといったことまでする。

本人だけが気づいていない

こうしたケースを目にすれば、誰もが次のように思うのではないだろうか。「なぜ、こんなひどい相手とつきあおうとするのか?」「なぜ、こんなひどいことをされているのに、別れようとしないのか?」「ひどい目にあって傷ついたはずなのに、なぜまた次も同じようなひどい相手を選ぼうとするのか?」

「ひどい」とは主観的な問題であり、客観的に決めることができないのは当然である。しかし、少なくとも「?」をつけざるを得ないような相手、「×」をつけられてもおかしくないような恋愛が存在することは、実感としておわかりいただけると思う。

自分がこうした恋愛傾向を持っていることについて、本人が自分で気づいている場合もあるし、まったく気づいていない場合もある。また、「なんで私ってこんなにも『男運』がないのかしら?」とか「次こそはちゃんとした女に出会いたいよ」など偶然の要因に帰している場合もある。

だが、周囲からすると、「またか!」「なんでわからないの!」「もういい加減にしたら?」とでも言いたくなるような場合が多いのも事実だ。

すなわち、周囲は皆その人が好き好んでそのような相手や恋愛を選択していることに気づいているのに、本人だけは気づいていないということが多いのである。

共依存者に依存する人々

こうしたケースを目にする・耳にするたびに、「なぜ?」という言葉が次から次へと心の中に湧きあがってきてくる。ある日、ふと、「共依存」という言葉を目にした。激しい衝撃とともに、まさにそれこそが答えであることがわかった。

共依存を理解するためには、アルコール依存症者とそのまわりにいる人物たちとの関係を想像してみるのがよいだろう。

たとえば、夫・妻・息子という三人家族があり、夫がアルコール依存症だったとしよう。その場合、夫がアルコール依存症であるがゆえの、妻や息子への悪影響というのはすぐに想像がつく。よくあるパターンは、酒を飲むと暴れ出す(身体的暴力)、仕事を休んだりさぼったりする、夫・父親として当然与えるべき愛情を与えない(家庭における精神的緊張状態や精神的虐待につながる) などであり、いずれにせよ、周囲にいる人物たちは何らかの害を受けるわけである。

たとえ離婚などで物理的に離れることができたとしても、その傷跡、特に精神的なものはたいてい長期間にわたって残ることになり、子どもの場合には一生それが尾を引くことになったりもする。家族の中にアルコール依存症者が出ると、その影響は少なくとも三代にわたると考える研究者もいるほどである。「アルコール依存症者=加害者、周囲にいる人物=被害者」……共依存が注目される前には、このような明確な二分法の図式が少なからず存在していたものと思われる。

だが、ここで立ち止まって考えていただきたい。とにかく酒を飲み続け、酒を飲んでいない時は酒を飲むことばかりを考えているはずの人間が、どうやって一人で生活していくことができるのであろうか? 仕事をまともにこなせるはずはない。では、どこかから酒代や生活費を調達しなければならないはずだ。掃除、洗濯、食事をはじめとする日常的なことも、自分一人ではまともにできない。では、誰かにやってもらわなくてはならないはずだ。

そう、極端な言い方をすれば、「アルコール依存症者のまわりには、その人がアルコール依存を続けることを可能たらしめている誰かがいる」と考えられるのである。もちろん、親の莫大な遺産があるなどの「環境要因」もあるだろうが、多くの場合、「誰か」が支えているのである。

よくあるケースはこうだ。夫はアルコール依存症で、一日中、家で酒ばかり飲んでいる。仕方がないから、妻が働きに出て、家計を支える。妻は夫がしらふの時に「お願いだから、お酒をやめてちゃんと働いて」と懇願し、夫は「ああ、そうするよ」などとうそぶく。だが、仕事から帰ってくればいつもの通り酔っぱらっており、「酒を買ってこい」と怒鳴られる。

怖いし、お酒さえ飲ませればおとなしくしてくれる、今日だけは仕方がないから従おうと思って、酒を買ってくる。翌朝起きるとまた「お酒をやめて」と懇願し……というパターンだ。おまけに、せびられるとお小遣いなどもあげてしまったりする。もちろんそれは酒代に消えるのだ。

この場合、もし妻が経済面から何から夫の面倒を見ることをすべてやめたらどうなるだろうか。夫は酒を飲み続けることはできなくなるはずである。これはアルコール依存症者が、周囲にいる人物に依存をしており、またその人物も依存を許しているということである。

もう一歩踏みこんで考えてみよう。妻は本当に夫に酒をやめてほしいのだろうか? そして、もし本心からやめてほしいのだとしたら、なぜわざわざ客観的に見れば夫のアルコール依存を助長するような行動をとるのであろうか?また、そもそもそんな苦しい状態にありながら、なぜ別れないのだろうか?少なくとも、なぜ改善に向けて何らかの行動を起こさないのであろうか?「愛しているから」「かわいそうだから」「怖いから」「それほど大した問題ではないから」「私さえ我慢すればいいから」「離婚は大変だから」……妻はそれこそ何百通りもの説明をしてくれるだろう。

だが、こう考えてみたらどうだろうか。「実は、妻も夫に依存しているのではないか」。もっとていねいに書けば、「アルコール依存症の夫が妻に依存しているのと同じように、妻もアルコール依存症の夫に依存しているのではないか」と。

「依存している」という言葉を「必要としている」という言葉に置き換えると、より理解しやすいかもしれない。アルコール依存症者が周囲の人物に一方的に依存しているのではなく、互いに依存し合っている、すなわち「『共』に『依存』し合っている」、これこそがまさに共依存の意味なのである。

共依存では、はたから見た場合の「ひどい相手(加害者)」と「被害者」が、実は心の奥底では互いが互いを必要としているところがポイントなのである。

共依存を見抜くチェックポイント

共依存という概念のイメージがつかめてきただろうか。さらに具体的に探っていこう。  メロディ・ビーティは著書『Codependent no more: Stop controlling others and start caring yourself』(邦題『共依存症:いつも他人に振りまわされる人たち』村山久美子訳/講談社) の中で、医療の現場に共依存症という言葉が登場したのは1970年代後半であるが、これだという明確な定義は今のところなく、研究者によって定義の仕方がさまざまに異なると述べている。

彼女自身は「共依存症者とは、特定の他者の行動に左右されていて、かつ、自分は相手の行動をコントロールしなければならないという強迫観念にとらわれている人のことである」と共依存症を定義している。ここでは共依存症者の5つの特徴を見ていくことで、共依存についての理解をさらに深めていただきたいと思う。

各特徴についてそれぞれ7つのポイントを挙げたが、3つ以上あてはまる項目があればあなたもその傾向が強いといえるだろう。

「必要とされる」ことを必要とする

  1. 電話、メールなどがこないと、ひどく落ちこんでしまう。もしくは、電話をする約束をされたわけでもないのに向こうが電話をしてこないと、「なんでかけてこないんだ!」と憤りを覚えてしまう。
  2. 「自分が相手を好きかどうか」よりも、「相手が自分を好きかどうか」のほうにより大きな価値をおく。
  3. 「好き」「愛している」「あなたが必要だ」などのセリフに非常に弱い。
  4. 「いつか相手は自分を必要としなくなり、どこかへ去っていってしまうのではないか」という漠然とした不安感に襲われることがある。
  5. 何か頼み事をされると、うれしくなってしまう。
  6. 相手の悩みや問題が解決されていくのを見ると、表面的には喜んでいるように見せても、内心ではがっかりしていることがある。
  7. 孤独に弱く、常に誰かと一緒にいないと不安になってしまう。

たとえば、恋人から頼み事や相談事をされると気分が高揚し、自信や充実感が体中にみなぎってくる場合。二人で何も悩まずにただ楽しい時を過ごすよりも、実はそうした心理的・物理的な労力を要求される時のほうが幸福を感じることができるのだ。

共依存症者は「他人が自分を必要としているかどうか」が気になって仕方がない。すなわち、「(他人から) 必要とされること」を「(自分は) 必要としている」のである。他人が自分を必要としているのがわかれば、大きな充実感や安心感を覚える。自分の存在価値が証明されたかのように感じるからである。

一方、他人が自分を必要としているという手がかりが得られないと、激しい落ちこみに襲われる。自分の存在価値が証明されないからである。すなわち、「他人が自分を必要としている=自分は生きている価値がある」との図式が頭の中にあるわけだ。

自分の存在価値はあくまで他人しだいなのである。それゆえ、他人が自分を必要としているという証拠を必死になって探そうとするし、それが見つからない場合には、たとえば自分からリーダー役や世話係を買ってでたり、自分を必要としてくれそうな人を探して接触するなどして、自分からそういった状況を作り出そうとする。

いわゆる「既読スルー」に対して過剰なほどに落ちこんだり憤ったりするし、「いいね!」が押されるかどうかが気になって仕方がない。それは強迫的ともいえるレベルであり、端から見れば「そんなに過剰反応しなくても」と思えるようなことでも、すぐに「自分は必要とされていない人間なのだ」との結論を導き出して落ちこんでしまう。

逆に、ささいな頼み事をされただけでも、大きな充実感を感じる。必要とされているかどうかで、心の安定度が大きな波を描くのである。さらに、恋愛であれば、「自分が相手を必要としているかどうか」ではなく、「相手が自分を必要としているかどうか」で相手選びをするということが起こる。

「好きだ」「私にはあなたが必要だ」と直接的に言われることもあれば、間接的にそのにおいをかぎ取ることもあるだろうが、ともかく自分が必要とされていることが恋愛成立の必須条件になるのである。

自分が相手を愛しているというだけでは駄目なのだ。逆に、相手のことを実はそれほど好きではなくとも、「君を愛してるんだ」「君が必要なんだ」で押し切られてしまうのも同様である。

「救済者」になりたがる

  1. 「ああしたほうがいい、こうしたほうがいい」とついつい人にアドバイスしてしまう。
  2. 相手が悩んでいるのを見ると、内心、うれしくなってしまう。
  3. 他人の世話を焼いている時に、一番の充実感を感じる。
  4. 頼まれたわけでもないのに、相手の悩み事に対して「自分が何とかしてあげよう」という使命感に駆られる。
  5. 「この人を助けてあげられるのは自分しかいない」と思うことがある。
  6. 自分がしたアドバイスに対して相手が実行してくれなかったり、感謝してくれなかったりすると、がっかりする、もしくは少なからず憤りを覚えてしまう。
  7. 「救うべき人(悩んでいる人)」や「自分のアドバイスを聞いてくれる人」がまわりにいないと、退屈や虚しさを感じてしまう。

「必要とされることを必要とする」がさらに進行すると、この第二の特徴になる。相手から必要とされるだけではなく、もっと自分から積極的に働きかけて、相手を救いたいのだ。「救済者になるイコール相手にとって自分が必要不可欠な存在になる」との図式が背後にあることはいうまでもない。

「共依存症者は人助けに飢えている」と表現されたり、「救済者コンプレックス」と名づけられたりするように、共依存症者は悩んでいる人や困っている人を自分の力で救いたいとの衝動に駆られる。

無論、社会においては「困っている人は助けてあげなければならない」との規範があるから、誰にでもそうした欲求は多かれ少なかれあり、また人助けをすれば自分もよい気持ちになるのは当然である。だが、共依存症者におけるその欲求は、並はずれて強い。強迫的に人助けをする機会を求めるのである。

「人助けをするのは気持ちいい」ではなく、「人助けをせずにはいられない」「人助けをしていないと心の安定が保てない」というレベルなのである。そこが大きな違いなのだ。

一方、相手を救うことができたという実感が得られれば、それはとてつもない快感につながるが、人助けに失敗した(自分のアドバイスを受け容れてもらえなかった、自分のアドバイスが役に立たなかった、相手から感謝されなかったなど) ということになると、激しい落ちこみや罪悪感、自己嫌悪、時には相手に対する怒りの感情が猛烈に襲ってくる。人を救うことに自分の存在価値のすべてをかけているためである。

アルコール依存症者、薬物依存症者、その他の依存症者、仕事や金銭的な面がうまくいっていない者、性格的・情緒的に問題がある者、心に大きな悩みを抱えている者……共依存症者が恋愛相手として選ぶのは、このように「問題を抱えた者」であることが多い。

なぜなら、そのような者たちこそ、「救いがいがある」からなのである。普通の相手では、「救いたい願望」を満たすことは難しいのだ。 相手を放っておけない

  1. 悩んでいる人、困っている状況にある人を見ると、その人のことが気になって仕方がない。
  2. 相手の問題を、自分の問題としてとらえてしまう。
  3. 他人の問題に深入りしてしまうことが多い。
  4. 自分のことよりも、他人のことを考えている時が多い。
  5. 「あの人は私がいなくてはダメになってしまうだろう」と考えることがある。
  6. 相手がどうすべきかをわかっているのは、相手自身よりも私のほうだと思うことがある。
  7. 相手が今どんな状態にいるか、今日一日どんなことをしていたのかなどが気になって仕方がない。

上記で紹介した博子は、金銭面や家事などの生活面はいうに及ばず、あらゆることで恋人の世話を焼いている。彼のために仕事を探す、将来設計を立てる、元気づけたり慰めたり……すべてが彼女の役目なのだ。「なんで私があなたのためにここまでしなきゃならないのよ!」としばしば怒りをぶつけるが、実はすべて自分から進んでやっていることなのである。

酒癖が悪い、お金にだらしがない、情緒的に問題がある……まわりから見れば「どうしようもない相手」とつきあっている人がいたとしよう。友人など周囲の者は見かねて、一生懸命「別れたほうがいい」「会ったり電話したりするのもやめたほうがいい」とアドバイスする。そこで、お決まりのように返ってくるのが、「でも、そうしたら彼はきっとダメになってしまうわ」「オレがついてあげてなきゃダメなんだ」「それはわかっているけど、放っておけないの」といったセリフなのである。

共依存症者は、他人と自分との間に適切な境界線を引くことが苦手だ。「心理的に他人の中に取りこまれる」との言い方もできる。相手の問題のはずが、いつの間にか自分の問題になってしまう。

たとえば、博子であれば、仕事を探して働くのはあくまで彼がやるべきことであるはずなのに、自分が何とかしなければならない問題だと考えてしまうのだ。彼が自分で問題を認識し、彼自身で改善・解決の努力をしなければならないところを、すべてを肩代わりしてやってしまうのである。

博子だけではない。懇願したりなだめすかしたりして酒をやめさせようとしたり、働くことの大切さ・お金の使い方をとうとうと説いたり、カウンセラーになってこれからとるべき行動を指し示し、それでも効き目がないならば、「しっかりしてよ」「しょうがないヤツだなあ」「今回限りだぞ」などと文句を言いながらも、しっかりとしかも完璧に相手のすべての面倒を自分から見てあげてしまう人は少なくない。

一見すると、これは純粋な利他心から出ているようにも見えるのだが、実は「相手を放っておけない」ということは、裏を返せば「相手をコントロール(支配) せずにはいられない」ということでもある。自分は相手の行動や精神状態を逐一把握していなければならず、相手がこれからどうふるまっていくべきかも自分が決めなくてはならない。最善の道を知っているのは相手ではなく、自分だという心理が存在するのだ。

極端だが、相手が自分の好きなように行動し、生きていくことが許せないとの見方もできる。 「では、問題を抱えた相手をそのまま放っておけというのか。アルコール依存症者には、そのまま好きなだけ酒を飲ませろというのか」との反論がなされるかもしれない。もちろん、放っておいていいはずはないし、アルコールをやめさせなければならない。

あなたができることをすべきである。しかし、共依存の場合には、「相手はこうあるべきである」「相手はこうしなければならない」との部分が極端になりすぎるのである。「力を貸す」のではなく、「支配」になっているのだ。

また、ささいなところにまですべてつい手や口を出してしまうという傾向もある。しかも、その支配は決して成功することはなく、支配をしようとしている自分が、ふたを開けてみれば結局相手に振り回されているという結果になる。

相手がアルコールや薬物依存などの深刻な状態にある場合は別として、一週間でいいから、相手の好きなように行動させることができるかどうかを試してみるとよい(例:会わない、電話しない、何をしていたのか聞かない、ああしろ・こうしろと言わない、など)。共依存的傾向にある人ならば、自分自身が不安で不安で仕方がなくなってしまうことだろう。

常に自分を後回しにする

  1. 相手のささいな言動や行動をいちいち気にしてしまう。
  2. 相手がつまらなさそうにしていたり、機嫌悪そうにしていると、「自分のせいだ」と感じてしまう。
  3. 「どうすれば相手を喜ばせることができるか」ということばかりを考えてしまう。 □楽しいことをしていたり、幸せな気分でいると、ふと罪悪感が頭をよぎることが少なくない。
  4. 「自分さえ我慢すればいい」という気持ちから、言いたいことややりたいことを我慢したり、事を荒立てないようにすることが多い。
  5. ほめられると、やっきになって否定したり、居心地が悪く感じてしまう。
  6. 人前では自分の本音を隠したり、演技をしてしまうことが多い。

百合の場合は、恋人の気持ちを読み取る名人である。彼が今どんな心理状態にあるのか、特に不機嫌なのか上機嫌なのか、しぐさや表情一つで敏感に察知する。そして、彼が上機嫌であれば自分も楽しい気持ちになるし(というより「ホッ」とする)、不機嫌であればびくびくしながらできるだけ彼を怒らせないよう、必死に努力するのだ。

恋人といる時に限らず、人と接している時、相手の心理状態を読もうと百合の目は常に素早く動いている。おそらく、無意識に行っているのだろう。「自分の幸せよりも、他人の幸せ」が共依存症者の合言葉である。

相手が幸せになって、初めて自分が幸せになる。「幸せになる権利が得られる」といったほうがいいだろうか。そもそも、自分が幸せになることは罪なのだ。自分には幸せになる資格がない。だが、もし他人を幸せにすることができれば、「特例」として幸せを感じることが許されるのである。

父親や母親の顔色をうかがって、とるべき行動や言動を決めていくということは、子どもの頃に誰でも行っている。母親が楽しそうにしていれば、自分も心おきなく楽しそうな顔をできるが、沈んだ顔をしていれば、たとえ自分が楽しくとも、楽しそうなそぶりを見せることはできない。

共依存症者の場合には、それが極端であるとともに、大人になってからもずっとその傾向を続けていく。友人や恋人のささいな言動や行動を敏感にキャッチし、自然にもしくは意図的にそれに応じた形で自分の言動や行動を調整していく。相手が楽しそうにしていれば自分も楽しくなるが、相手が少しでも不機嫌そうだったり、退屈そうだったりすると大慌てしてしまう。あたかもそれはすべて自分のせいであるかのようだ。

それゆえ、無理に明るくふるまったり、事を荒立てたくないために、怒りや悲しみといった感情を人前では強く抑圧する。たとえば、大勢が集まるような時、「場が盛りあがっているか」どうかを過剰に気にしたり、無理に明るくふるまって場を盛りあげようとする人がいるが、それはこのタイプである。「皆が楽しんでいる」という実感が持てないと、不安になってしまうのだ。

同じく恋愛でも、自分ではなく、恋人がすべて最優先となる。恋人が楽しんでいるかどうか、恋人が喜んでいるかどうかがすべてであり、自分が楽しいかどうか、自分がうれしいかどうかは後回しになる。同じくセックスでも、自分が気持ちいいかどうかではなく、相手が気持ちいいかどうか気になる。

そして、何か問題が起きれば(問題といっても、相手が何かに対して不満足だということであるが)、それはすべて「自分が悪いからだ」ということになる。

これは何も共依存に限ったことではないが、互いの譲り合いといった自然なものではなく、強迫的に自分よりも相手を優先させてしまうのは、自分で自分のことを無価値な人間だと思っているからである。自尊心もしくは自己評価が極端に低いという言い方もできるだろう。

「駄目な人間である自分が、人様より先頭に立っていいはずがない。ましてや、自分の幸福を真っ先に追求するなんて恐ろしい罪を犯してはいけないのだ」と頭の片隅で常に考えているのである。

現実を見つめることができない

  1. 友人たちの多くから「別れたほうがいい」と言われても、なかなか別れることができない。
  2. 相手をかばって、周囲に嘘をつくことがある。
  3. 相手に何か問題があることに気づいても、「大したことではない」と自分に言い聞かせる。
  4. つらさや苦しみがあっても、「愛しているから仕方がない」などと我慢してしまう。
  5. 「本当の彼(彼女)」をわかってあげられるのは、自分だけだと思う。
  6. 「今はつらいけど、そのうちきっと物事はいい方向に進むはずだ」などと、大した根拠もないのに、思いこもうとする。
  7. 自分がもっと努力すれば、事態はきっとよくなっていくと思う。

「もうそろそろ、彼も働き始めるだろうとは思うのですが……」(博子)。「まあ、ぶたれるのを我慢すればいいだけなんですけど……」(百合)。共依存の場合では、現実は歪められて認識されてしまう。自分にとって都合の悪い(認めるのが苦しい) 事実は無視されるか、自分の都合のよいようにねじ曲げられる。

もちろん、誰にでもそのような傾向は多かれ少なかれあるのだが(精神分析では「防衛機制〈defense mechanism〉」と呼ばれる)、共依存ではそのねじ曲げ方が極端で、周囲が「?」をつけたくなるような発言が多くなる。

ポイントは3つある

まずは、「否定(denial)」であり、「そもそも問題などどこにもないのだ」と思いこもうとすることである。問題を指摘されても「そんなことはない」「別に私は気にしていない」「大したことではない」といった発言を返すことになる。

第二は「合理化(rationalization)」であり、もっともらしい理由づけをして納得しようとすることである。「お酒ぐらい誰でも飲んでいる」「彼が仕事につかないのは、世間が彼の才能に気づかないからだ」「確かにワガママは半端じゃないけど、そこがまたかわいいんだ」などといったセリフに象徴される。

第三は「非現実的な期待感(unrealistic expectations)」であり、何か偶然や奇跡の力で、物事ががらりとよい方向に進むという根拠のない期待感を持つことである。「そのうち自分からお酒をやめるでしょ」「そのうちちゃんと働き出すわよ」といったことや、よくあるのが、「ある日突然、相手が自分の愛の大きさに気づいて改心する」という夢想である。

たとえば、「いつか私の愛に気づいて、『ごめん、すべてオレが悪かったよ』と謝る日がくると思います」「彼女は本当の愛を知らないだけなんだ。いつかオレの愛こそが本当の愛だっていうことに気づいて、浮気をきっぱりやめるはず」というのは、私が実際に耳にしたセリフである。

共依存的恋愛のサイクル

共依存症者の恋愛をさらに詳しく分析してみよう。共依存症者の典型的な恋愛では9つのステップがあることが認められる。輪を描いて回っているように見えるので、ここでは「サイクル」と呼ぶ。

『Facing Love Addiction』(Harper Collins) を著したピア・メロディの説を参考にして、サイクルにおける各ステップを見ていくことにしたい。

1. 共依存症者が回避依存症者に惹きつけられる

回避依存症者とは、親密で心休まるような恋愛関係を形成できない者のことであるが、ここでは「ひどい相手」のことだと思っておけばいいだろう。

親子関係や過去経験によって共依存的傾向があらかじめ形成されていた者は、回避依存症者に出会ったその瞬間、一瞬にしてものすごい力で惹きつけられる。逆に、回避依存症者も共依存症者に一瞬にして惹きつけられる。N極とS極のような互いのその磁力は、まさに魔法といってもよいほどで、たとえその場に恋人候補者が互いにあと九九人いようとも、間違いなく互いを見つけ出し合うだろう。

本人たちは「一目惚れ(love at first sight)」とそれを呼ぶかもしれない。「一目見て、この人だとわかったわ」「あれこそ、まさに運命の出会いだよ」「とにかく、他の男とは全然違っていたのよ」「彼女に出会うために生まれてきたんだ、っていう気がしました」などは、共依存症者が後から出会いを振り返ってよく口にするセリフである。

確かに、一目惚れや運命の出会いというのはある。それは素晴らしいものに違いない。しかし、ピア・メロディが「一目で依存症が始まる(addiction at first sight)」との表現を用いているように、共依存症者と回避依存症者の出会いは、甘美だが危険な旅路への第一歩なのである。

2.「熱に侵された」状態になる

「自分のすべてを満たしてくれる人がついにあらわれた!」との認識とともに、気分が一気に高揚し、熱狂的な状態になる。相手は「白馬に乗った王子様」や「天使のようなプリンセス」であり、人生はバラ色に思えてくる。相手は理想化され、自ら作り出した幻想というフィルターを通してしか相手を見ることができなくなる。

相手は長所も短所もある現実の人間ではなく、短所などない完璧な(自分の幻想にぴったりあてはまった) 人間だ。しかも、共依存症者が幻想の世界にとらわれて現実が見たくなっているだけでなく、回避依存症者はその役を天才的に巧みにこなす。共依存症者が何を望んでいるのか、本能的にもしくは経験的に知っているからである。

3.「救われた」と感じる

孤独、焦燥、虚無、自己嫌悪、自己否定、愛されることへの渇望……こうしたすべての心の痛みから、解放されたと感じる。自分は価値のある人間であり、完全であり、満たされており、人から愛される存在なのだ。共依存症者の場合には、普段の心の痛みが人よりも強い分、その喜びは想像もつかないほど大きい。

自分ではどうすることもできなかった心の痛みが、ある人物の登場、ただそれだけによってすべて癒されたのだ。彼(彼女) によって自分は救われ、生まれ変わることができる。これこそが運命の恋だと思っても、少しも不思議ではない。

4.より多くを要求するが、満たされない部分もしだいに出てくる

「彼(彼女) は私のすべてを満たしてくれるはずだ」との信念が根底にあるので、相手に求めるものも必然的に大きくなっていく。しかしながら、すべてを満たすことなどとうていできるはずはない。

また、回避依存症者の「演技」にもほころびが見え始める。さらに、回避依存症者は「相手が大きな要求とともに迫ってくること」をもっとも恐れるので、しだいに逃げの姿勢を示し始める。だが、この段階では、共依存症者はまだ幻想の中で生きることができる。たとえば、「会いたい」と言っても断られる機会が増えても、「きっと仕事が忙しいのよ」などと否定や合理化などによって自分を納得させてしまうのである。

5.自分をごまかすことが難しくなってくる

相手にはネガティブな側面(性格的な欠陥、暴力、浮気、アルコール依存、お金にだらしがないなど) があること、自分のすべては満たしてはもらえないこと、自分を遠ざけようとしていること、これらの「証拠」が突きつけられるにしたがって、しだいに「見たくないものが、見えてくる」ようになる。

否定や合理化といった心理的な防衛機制だけでは、事実にふたをすることができなくなってしまうのである。いったん天国に持ち上げられて、そこから真っ逆さまに突き落とされるのと同じだ。「あなたに一億円が当たりました。来月にお振り込みいたします」と言われていたのに、その来月になってみた突然、「申し訳ありませんがこちらの手違いでした」と言われるようなものだ。すべての心の痛みから救われると思っていたのに、その期待が一気に崩れ去る。

自分をごまかしきれなくなってくると、その状況や相手に対して抵抗を試みる。大声で要求を叫ぶ、怒る、泣く、餌(お金、セックスなど)で釣ろうとする、脅す(「こちらの要求に応えなければ、お金やセックスを与えないぞ」と脅したり、「あなたがひどい人間だということを周囲に訴えてやる」など)、 肝 計 をめぐらす(気をひくためにわざと浮気をしてみるなど) といったことである。

しかし、共依存症者と回避依存症者のカップルの場合、共依存症者によるこの抵抗が実を結ぶことはまずない。それどころか、むしろ、ますます回避依存症者の術中にはまっていくだけである。こうした行動は、自分の心や体を傷つけるばかりで、二人の関係はどんどん「有毒なもの(toxic)」になっていく。

6.ひきこもり(withdrawal)

共依存症者はついに「負け」を認めざるを得なくなる。彼(彼女) は自分の救世主ではなかったし、自分は(少なくとも心理的には) 捨てられてしまったのだ。他に恋人ができたのか、それとも他に興味があることができたのかはわからないが、ともかく彼(彼女) にとって、自分は彼(彼女) の中心にいる存在ではなくなってしまったのである。

アルコール依存症者が酒を取りあげられてしまった時のように、あらゆる苦しみが一気に襲ってくる。孤独、焦燥、虚無感、自己嫌悪、自己否定、愛されることへの渇望……以前の、そして消すことができたと思ったあの痛みだ。あの恐るべき痛みが再び襲ってくる。しかも、今度は以前の痛みにプラスして、期待が裏切られたという絶望感と、自分が愚かだったという自己嫌悪感までおまけについてくる。

これらの心の苦しみや悲しみは、想像を絶するものだ。この時に適切な介入(友人など周囲の者によるサポートなど) や適切な自助努力(カウンセリングに行く、本を読むなど) がなされないと、深刻な「うつ」に陥ったり、自傷行為に及んだりということになる。また、苦しみから逃れたい一心で、酒、食べ物、ドラッグ、買い物、ギャンブルなどに走れば、他の依存症にも陥ることになる。

7.恋人を取り戻す(または改心させる)ために、妄想的な考えにとらわれるようになる

6番目のステップまできても、「あきらめなければならない」ことや「自分のためにはもうきっぱりと関係を絶たなければならない」ことが認められない場合、妄想が始まる。ありのままの現実を受け容れるのがあまりにも苦しいからである。

たとえば、「毎日のようにメールを出し続ければ、オレの本当の気持ちがわかって戻ってきてくれるだろう」「毎日食事を作って持っていってあげれば、私のありがたみがわかるだろう」といったものや、ひどくなると「私が自殺未遂を起こせば、彼はきっと改心してくれるだろう」とか、「全財産を彼女に捧げると言えば、さすがに彼女も戻ってくるだろう」「彼女はあいつ(新しい恋人) に偏されているだけで、あいつさえいなくなれば正気に戻るだろう」などとなる。

このステップまでくると、現実の相手も、現実の自分もまったく見えなくなり、内的な世界のみで思考が堂々めぐりをすることになる。

8.妄想が実行に移される

7番目のステップで形成された妄想が、実行に移される。切ない気持ちをつづったメールを毎日送り続けたり、一日に何度も何度も電話をかけ続けるのはまだ序の口である。手首を切った、睡眠薬を大量に摂取したとの電話が突然恋人からかかってきた、300万円の札束を突然目の前に突きつけられた、婚礼の日取りや式場、式の進行が書かれた書類を突然渡されたなどの極端な実例も存在する。

「All or Nothing」な視野狭窄 の状態になっているのも特徴で、何か極端なことをすれば恋人を取り戻す(改心させる) ことができるとの思考に取り憑かれてしまうこともある。ストーカーは身近な人(特に昔つきあっていた恋人) である場合が多いという。「ストーカー=共依存症者」ではないことは固くお断りしておくが、心の痛みから逃れたい一心で妄想的な行動を起こせば、周囲からはストーカー的行為と見られてしまうこともある。

9.パートナーが戻ってくる、もしくは、新しいパートナーを見つけることにより、1からまたサイクルを始める

何らかの理由によって相手が戻ってきたり改心したりすると、一時的にまたハネムーン状態が戻ってくる。すべてがバラ色になり、すべての問題は解決し、明るい未来のみが見えてくる。もしくは、新たな出会いがあるかもしれない。

「今度こそは失敗しないはず」と選んだ相手だ。「前の相手とは違う理由」をいくらでも挙げることができる。  だが、残念なことに、気がついてみるとまた同じサイクルを繰り返している。改心したはずの相手はいつの間にかまたもとの状態に戻っている。「今度こそは……」の相手もよかったのは初めのうちだけ。結局は前の相手と少しも変わりがない。

こうして「なぜいつも……?」と自分の運命を呪いながら、共依存症的恋愛のサイクルからいつまでも抜け出せないのである。この9つのステップはあくまで一つのモデルであり、どのステップを経るかについては個人差や状況による差(相手の要因など) がある。特に7と8のステップを経るかどうかは個人差が大きい。

一方、7、8を経ないで9に飛ぶ人は、「あきらめる」タイプである。「またやってしまった」ことに気づき、自分の中にひきこもる。相手が離れていくにまかせる場合もあるし、相手に利用され続けるということもある。だが、自分から何かをしかけることはあまりない。「私にはどうしようもできない」とあきらめてしまうのである。

このタイプは、特定の誰かにはまるというよりは、回避依存的傾向にある者と次々に関係を結んでいくことが多いようである。

深層心理が共依存的恋愛を引き寄せる

なぜ、共依存、そして共依存的恋愛のサイクルに陥ってしまうのか?そこには確固とした心理学的理由が存在する。

人の心を、「自分自身で意識できる領域=意識」と「自分自身では意識できない領域=無意識」に分けたのがフロイトを祖とする精神分析の出発点である。共依存は、心の中にある「無意識」の領域に書きこまれたプログラムであるために、自分がそうであると気づくことも、どうしてそうなったのかを知ることも、そこから抜け出すことも難しくなってしまう。

よって、共依存的恋愛から脱するためには、その無意識のプログラムに気づくことが第一だ。

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