愛にはバランスが必要になる。恋愛心理の観点からみてみる

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生まれた当初、私たちにとって、親というのは全知全能の神に等しい存在である。

食料、安全、保護、愛情……必要なものすべてが親の手に委ねられている。一方、通常の場合、親はまた自分の奴隷に等しい存在でもある。お腹が減ったら泣く、すると親がミルクを与えてくれる。排泄したら泣く、すると急いで快適な新しいおむつに替えてもらえる。機嫌が悪ければむずかる、するとご機嫌取りであやしてもらえる。自分の一挙手一投足で、親は思い通りに動いてくれるのである。

この時期、私たちの内的世界では「親=自分」となっており(親といっても別に生みの親とは限らず、中心的に世話をしてくれる人のことである)、親が自分とは別個の存在であることをまだ認識できていない。

自分の欲求が満たされるかどうかがすべてであり、「他者」という視点はない。世界は自分のために存在し、自分こそが世界のすべてなのだ。「ナルシシズム(自己愛) の段階」と呼ばれている。

しかし、泣くだけですべて言うことを聞いてもらえていたのが、「それぐらい自分でやりなさい」「泣いたって駄目ですよ」に徐々に変わる。ここで初めて、親と自分が別個の存在であること、また、別個の存在でなければならないことを認識せざるを得なくなる。「分離・独立の段階」である。

私たちにとって、この分離・独立の段階は、人生最初の大きな試練である。今までは心地よい自己愛の世界の中で生きていられたのに、危険で恐ろしい世界に足を踏み入れていかねばならない。

奴隷であるはずだった親も、しつけなどをはじめとして、時には自分にとってもっとも恐ろしい存在となる。安全で幸福な世界が突如として崩れ去るのである。子どもが分離・独立の段階をスムーズに昇れるかどうかは、親が「適度に要求に応え、適度に突き放す」ことができるかどうかにかかっている。要求にある程度応えることにより「私たちはお前の味方なんだよ、ここはお前にとって安全な場所なんだよ」と認識させつつ、「だからといって、いつまでもここにいてはいけないよ。外の世界にお前一人で出ていかなければならないんだよ」と背中を押してやるのである。

その「受け容れ」と「突き放し」の微妙なバランスが重要なのだ。受け容れが強すぎれば、いわゆる過保護になり、子どもはいつまでもナルシシズムの段階にとどまってしまう。一方、突き放しが強すぎれば、「自分は見捨てられたんだ」と孤独感や自己否定感を募らせたり、分離への恐怖感が強くなりすぎて逆に第一歩を踏み出せなくなる。

「毒親」という言葉をご存じだろうか?母親に限定をして、「毒母」と呼ばれることもある。  元となったのは、アメリカの著名な心理セラピストであるスーザン・フォワードが著した『毒になる親』(Toxic Parents)という本だ(日本では同タイトルにて講談社より発刊)。 「毒」という言葉を強すぎると感じる人もいるだろうが、「子どもたちの将来や人生全般に悪影響を及ぼす親」のことを指している。

「良い親」「普通の親」はもちろんのこと、「あまりよろしくない」程度の親のもとで育った人たちには理解や共感が難しいだろうが、まさに子どもにとっては毒となるような悪影響を及ぼす親というのは確かに存在する。しかも、目に見えるような・はっきりと証拠に残せるような悪影響(例:暴力、虐待)ではなく、一見それとはわかりにくい、むしろ表面的には「愛情深い良い親」とさえ思わせてしまうような言動や行動が特徴になる場合もある分、子どもたちは余計に苦しんでしまう。

実際に身に覚えがある、しかもまわりからは理解されない、自分自身でも今まではまったく気づいていなかったなど、インパクトが大きかった分、「毒親」という言葉や概念は、一部で大きな流行をし、そして既に定着した感がある。

スーザン・フォワードは、「毒になる親」のタイプとして、たとえば「神様のような親」「義務を果たさない親」「コントロールばかりする親」「アルコール中毒の親」「残酷な言葉で傷つける親」「暴力をふるう親」「性的な行為をする親」などを挙げている。

各タイプの詳細については『毒になる親』をお読みいただきたいが、重要なのは、親が子どもに悪影響を及ぼす言動や行動の仕方についてはさまざまであるものの、子どもに「罪悪感」「自己否定感」「無価値感」「絶望感」などの悪感情を植えつけているという点では、共通だということだ。

たとえ親とは物理的に離れることができても、また、たとえ親はこの世にはもういないとしても、植えつけられた感情が心の奥底にずっと残り続ける。そのため、毒親に育てられた子どもたちは、いつまでたっても「幸せ」「心の安寧」「自己肯定感」を手にすることができない。毒親による心理的支配をいつまでも受け続けてしまうのである。

先ほどの「親からの分離・独立」という点でいえば、毒親やそれに類する親のもとで育った人は、分離・独立に失敗をし、「親から得られるはずであった・得たかった愛情を、永遠に求め続ける」パターンにはまりやすい。独立するための勇気や支持、安全基地となるための親からの愛情が得られなかったために、いつまでも親から心理的に旅立つことができない。

「親にもっと自分を愛してほしかった」と涙ながらに訴える場合もあれば、愛を与えてくれなかった親を心から恨んでいる、憎んでいるという場合もある。表層意識では自分でも気がついていない場合もあるだろう。

過保護など、一見、過度の愛情がそそがれているように見えても、実は支配的なだけで条件付きの愛情のみがそそがれていることも多い。親の期待に添えた時だけ、子どもは愛してもらえるのである。結局、子どもは冷たく突き放されているのであって、これもまた同じパターンといえる。

だが、その「失われた愛情」を当の親自身から取り戻すことは難しい。というか、不可能に近い。親が「あの時は本当にすまなかった」と謝ったり、「お前が何と言おうと、本当にお前のことを愛していたんだよ」などと言うことは、ドラマではあるかもしれないが、現実にはあまり期待できない。

「そんなはずはない」と事実を認めなかったり、「親に向かって何てことを言うんだ。お前を育てるのにどれだけ苦労したか……」と逆に叱られるのが普通である。そもそも毒親からの心理的支配を受けている人は、親を前にしたら、子ども時代のように何も言えなくなってしまう。

また、大人になるにつれ、物理的にも親から離れることになるだろうし、社会・文化的な規範もあって(表面的には) 精神的にも親から離れていくことになる。

すなわち、深層心理的には親の影響をずっと引きずりながらも、大人になるにつれ、表面的には親から離れていく、親からの愛情をあきらめていくという状態になるのである。すると、親しい人、特に恋人を親代わりにして、その失われた愛情を何とか取り戻そうとするメカニズムが働き始める。スーザン・フォワードは著書『Obsessive Love』(邦題『その恋を捨てる勇気がありますか』恵見真・竹内美佳子訳/早稲田出版) の中で、「象徴的親」との言葉を用いているが、深層心理では「恋人=象徴的親」であり、恋人は現実の親の代理なのである(そして本人はそのことに気づいていないことがほとんどだ。

小さい頃の子どもの役を自分が演じ、その時の親の役を恋人に演じさせるともいえる)。  これが共依存症者が恋人に「しがみつく」理由である。特に、ある特定の人にどっぷりとはまってしまう場合がそうだ。

彼(彼女) にとって、恋人は親なのである。親だから、べったりとくっつこうとする。親だから、離れがたい。親だから、自分との心理的境界線がうまく引けなくなる。親だから、そう簡単に取り替えるわけにはいかない。

何より、そこで失敗するということは、人生最大といえるかもしれないあの恐ろしいトラウマ(親から愛してもらえなかった)を再び経験するということにつながる。

はたから見れば「ひどい相手」を選ぶ理由、「ひどい状況でも我慢する、がんばり続ける」理由がここにある。「愛情を与えてくれなかった親」の役をうまく演じてもらおうとすれば、どうしても「ひどい相手」になるし、二度と失敗はできない、失敗を認めたら自分が崩れてしまうから、いつまでも我慢し、がんばり続けるのである。

もしあなたに共依存的傾向がある場合、また、共依存的恋愛パターンにはまっている場合、それでも、「親」や「過去」があなたの恋愛に影響を与えていることがわかりにくいというのなら、「ああ、これはあの時と同じ状況ではないか」「ああ、これは、あの時に味わった気持ちではないか」という場面を経験することがないか考えてみてほしい。

特に、相手のささいな言動や行動が、あなたの中に強烈な感情(恐怖感、拒絶感、孤独感、自己否定感など特にネガティブな感情) を引き起こす瞬間がもっとも大きなヒントになる。

たとえば、恋人とささいなことで口ゲンカになりそうになった瞬間、とてつもない恐怖感があなたを襲ったとする。それは楽しいはずの夕食の席で突然始まった、両親の言い争いを起こさせるからではないか。

あなたの要求に恋人が軽い気持ちでノーと言った瞬間、とてつもない怒りや悲しみが襲ってきたとする。それはいくらあなたがお願いをしても、決して親に聞き入れてもらえなかった時の感情が 甦ってきたからではないか。恋人に自己主張しようとした瞬間、罪悪感が襲ってきたとする。それは自己主張するたびに「そんなワガママを言うんじゃありません!」と怒られたり、冷たく無視されるだけに終わった子ども時代を思い起こさせるからではないだろうか。

突然襲ってくる説明のつかないネガティブな感情や精神的混乱、そのほとんどは、今ここにいる自分もしくは今目の前にいる相手に原因があるのではない。過去の経験や感情を記憶から甦らせる引き金が引かれたのであり、過去に受けた傷口が開かれようとしているためなのである。

我が国ではよくあることなのだが、夫が仕事や会社にすべてのエネルギーを費やし、物理的にも精神的にも父親不在の家庭が作られたり、男尊女卑やコミュニケーション能力の不足等から親密な夫婦関係が築かれないと、本来であれば夫に向けるべき諸々を妻は子どもに向けるようになる。夫への不満、自分の人生や境遇に対する不満を子どもに垂れ流しにするとともに、自分の希望や存在価値のすべてを子どもに託すようになる。  こうして子どもは、まだ自分自身のことも、世間や

こうして子どもは、まだ自分自身のことも、世間や社会のこともよくわからないうちに、親に取りこまれることになる。「親=自分」の状態を抜け出すことを、親によって禁じられてしまうのだ。

それにともなって、「親の苦しみ=自分の苦しみ」になる。年端もいかないうちから、親の
苦しみをすべて背負いこまされてしまうのである。

当の親はそんなことをしているつもりは毛頭なく、ただ身近にいるし、話しやすいから 愚痴 や不満を何気なくこぼしているのかもしれない。だが、子どもは大人のように「まあ、それは大変ですねえ」と軽く受け流すことはできないのだ。

「楽しいこともあればつらいこともあるよね」「まあ、でも、トータルにしてみれば幸せだよね」「なんだかんだ言っても結局は愛しているくせに」といったことは子どもには理解できない。ましてや世界でもっとも大事な自分の親のことである。

親が愚痴や不満を軽い気持ちで子どもにこぼすだけでも、子どもは「それは大変だ!ボク(私) が何とかしなくちゃ!」という気持ちになるのだ。そして、自分の欲求や感情は後回しにして親のことを優先させるようになるとともに、親を救えない自分に対して無力感や罪悪感といった自己否定感を形成するようになるのである。

「アダルトチルドレン」という概念はもはやかなり一般的になったと思われる。もともとは「アルコール依存症の親を持つ子供たち(adult children of alcoholics)」のことであるが、現在はアルコール依存だけではなく、何かしらの問題を抱えた親の存在による「機能不全家族」のもとで育ち、そのためにさまざまな心の苦しみを抱えることになった人たちのことを指している。

慢性的な自己否定感(自分は愛されるに値しない、価値のない人間であるなど)や他者への過度の適応(ノーと言えない、他人の目を過度に気にするなど) といった特徴があるが、先に挙げた共依存症の特徴がそのままあてはまると思ってよいだろう。

機能不全家族(本来あるべき家庭の役割に支障がきたされている)というのは曖昧な言い方に聞こえるかもしれない。「あるべき家庭」などを一つに決めることはできないし、どんな家庭であっても多かれ少なかれ何かしらの問題が存在するからだ。

そのような意味では、どんな家庭であってもアダルトチルドレンが生まれる可能性はあるといえるし、逆に、重大な問題を抱えている家庭だからといって、その子どもたちが必ずアダルトチルドレンになるというわけではない。

だが、そのような点を考慮しても、やはり「アダルトチルドレンを生みやすい家庭環境」は確かに存在する。親が、アルコール、ドラッグ、ギャンブルをはじめとするさまざまな依存症に陥っている場合にはわかりやすいだろう。

親が酒ばかり飲んでいる、非合法的なドラッグを求めてさまよっている、借金をしてまでギヤンブルにのめりこんでいる……これらが家族や子どもによい影響を与えないことは一目瞭然だ。一方、世間的な評価とのギャップという落とし穴もある。

親がワーカホリックである、金儲けにばかり奔走しているという例がそれだ。世間からは「仕事執心な旦那さん」「出世頭」「裕福な家庭」などともてはやされていても、その実、家庭内が冷えきっているケースは多い。「いいおうちのお子さん」がアダルトチルドレンであることは、心理学の世界では何も珍しいことではない。

いずれにせよ、こうした機能不全家族では、子どもが自分自身や他者を健全なやり方で愛する 術 を学ぶことは難しい。

かたよった形での「愛し方、愛され方」を学んでしまうとの言い方もできる。そのかたよりが、大人になってからの恋愛に影響を与え続けるのである。これは「役割」や「適応パターン」という概念から読み解くと、よりわかりやすい。「生き残る(survive)」という言葉が用いられるぐらい、機能不全家族の中で成長していくことは子どもにとって大変なことである。

日々闘いであり、何とかしなければ生き残ることはできない。すると、子どもは生き残るための方法、欲しいものを得るための方法として、何らかの役割や行動パターンを身につけるのである。

アダルトチルドレンの家庭内における役割にはさまざまなものがある。たとえば、「ヒーロー」と呼ばれる役割は、学業やスポーツなどで優秀な成績をおさめることで自分が光り輝く存在となり、家庭にはびこる闇を隠そうとするものである。

「マスコット」は自分が道化者になることで、家族内の緊張状態をやわらげようとする。 「世話役」は親子の逆転であり、本来ならば親が子どもに与えるべき世話を、子どもが親に与える(食事といった文字通りの世話もあるし、先述したような愚痴の聞き役など情緒的な世話もある)。

「問題児」は犯罪や反社会的行為、登校拒否など何らかの問題を起こすことによって、家族の中にある本当の問題を隠そうとしたり、家族の結束を高めようとしたりする(子どもの問題を解決するために夫と妻が協力し、一時的にせよ冷えきっていた関係がよくなることがある)。

「パパの王女様」や「ママの王子様」は何とか父親や母親の愛情を得ようと、自分の欲求や感情を押し殺してまで、父親や母親の望みに合わせようとするのである。

こうした役割は、確かにその家庭の中のみであったら、「適応的」といえるものだ。しかし、家庭の外においても、また大人になってからもその役割を脱ぎ捨てることができない時、しばしばそれは自分自身を傷つけたり、かえって社会的な不適応を招くことにつながる。恋愛においても恋人に対してその役割を忠実に遂行しようとすることで、苦しみやトラブルを招くことになる。

たとえば、「ヒーロー」は、恋人の前で必死に素晴らしい自分を演出しようとするだろう。がんばりすぎて結局自分が疲れてしまい、自分から白旗を揚げるのがこのタイプである。

「マスコット」は恋人の前で必要以上に明るくふるまったり、おどけてしまったりする。自分の本当の欲求、つらさや苦しみを隠したり、二人の間にある本当の問題から目をそらしてしまうことにつながる。

「世話役」はひどい相手・だらしがない相手の面倒を自ら引き受けてしまうことになるだろう。まさに共依存的恋愛だ。相手に特に問題がない場合でも、必要以上に世話を焼こうとするかもしれない。

「問題児」は、わざと何か問題(反社会的行為、浮気など) を起こすことで、恋人の気を引きつけようとするだろう。

「パパの王女様」や「ママの王子様」は、自分の欲求や感情を押し殺してまで、相手の好みや欲求に合わせようとするのである。

エリクソンという心理学者は、フロイトの精神分析理論を発展させ、「漸成的自我発達理論」を提唱した。

漸成とは一つの構造の上に別のものが順次構築されていくことを意味し、人の心は生涯にわたって八つの段階を経て発達していくことを、エリクソンは示したのである。前の段階における発達課題(その段階で解決・獲得しなければならないもの) をこなして、初めて次の段階に進むことができ、解決されなかった課題は「自我の未熟さ(maladjustment)」となって、望ましくない影響をいつまでも私たちに与え続けると考えるところが特徴的である。

その八つの発達段階の第一番目にくるのが「『基本的信頼感』対『基本的不信感』」と呼ばれる段階である。

基本的信頼感とは、自分自身、他者、自分自身が生きているこの世界は価値があり信頼できるものであるという感情である。愛や喜びなどポジティブな感情要素のもっとも根底にあるものということもできる。

逆に、基本的不信感とは、自分自身・他者・世界に対する根木的な不信感のことである。たとえば、「○○さんは嫌いだ、信頼できない」と特定の人に対する不信感を募らせるのは誰にでもあることだ。

しかし、基本的不信感を持つ人は、自分も含めたこの世にいるほとんどすべての人を信頼することができない。この段階において基本的信頼感を獲得することができないと、基本的不信感を深層で抱えたまま残りの人生を送ることになる。

エリクソンは、基本的信頼感は、誕生から一歳半頃までの乳児期における、養育者(母親とは限らない)とのポジティブな相互作用によって身につくものであるとしている。だが、それは乳児期に限らないだろう。

幼少期における親子関係、家族関係によって決まってくる部分も非常に大きいからである。たとえば、先に述べたような「機能不全家族」では、基本的信頼感を獲得しにくいことはいうまでもない。

この基本的信頼感がないと、自分自身を愛せない、ありのままの自分を受け容れられないということになる。すると、「私なんか価値のない人間だ、駄目な人間だ」「私が愛されるわけがない」「何か特別なことをしなければ私は愛してもらえない」……(この三つは相互関連している) との信念が深層心理の中で形成される。

これが「必要とされることを必要とする」「ひどい状況、ひどい相手でも我慢する」「常に目分を後回しにする」理由の一つになる。「相手を放っておけない」ことや「ちょっとしたきっかけを拒絶のサインととらえたり、嫉妬や被害妄想が止められない」のは、根本的な部分で他者を愛し、信頼することができないからである(基本的不信感の影響)。

他者は信頼できない、信頼するとひどい目にあうと思っているから、他者を常に目分の手の中におさめておかねば不安になる。不信感があるから、そして自分には愛される価値がないと思っているから、ちょっとしたことをすぐに拒絶や裏切りの証拠として認識してしまうのである。

基本的不信感があると、何から何までネガティブに考える傾向が強くなる。恋愛も例外ではなく、「恋愛なんて、いいのは初めのうちだけ」「どうせ裏切られるに決まってる」「やさしい愛をそそいでくれる人なんて、いるわけがない」などと、恐れとも絶望とも怒りとも取れるようなネガティブな信念を恋愛に対して形成する。

すると、興味深いことに、人間の心理メカニズムとして、その信念の正しさを証明できるような相手・恋愛をあえて選ぶということが起こるのである。口では「つらい」と言っていても、深層心理では自分の信念の正しさが証明されて安心しているわけだ。

自分でも気づかないうちに、自分の信念の正しさを証明しようとして、共依存的恋愛のサイクルに自ら飛び込み、抜け出そうとしなくなってしまう。

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