始まり方が悪い恋愛はこわれやすい凄まじい恋愛トラブル実際の例

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不倫で悩む男女。

「会社の上司を私のほうから追いかけて、一年半交際した後に結婚した」奥さんである。だが、夫の愛人問題で今は苦しんでいる。

この奥さんは結婚できたときに「恋が実った」と思ったのが錯覚で、実は実っていない。 「主人はその女性と別れたと言いながら実はまだつきあっている」

その愛人も会社の女性。彼女が夫に「愛人とまだつきあっているでしょう」と言うと、「送っていってくれと言うものだから仕方なくて」と言い訳をする。

恋が実ったようで実っていない。そういった恋がある。それは始まりに原因がある

夫は自分が受け身であることを主張して、責任を逃れようとする。「こんな男を何で追いかけたのだ?」と聞くと、「つきあい出したときに私は淋しかったもので、家にいろいろとあって、家を出たくて、そんなときに優しくしてくれて、どこかに連れていってと言ったら七時間一緒にいてくれた」と昔を懐かしむ。

つまりこの恋愛関係が破滅になってしまうのは、そもそもの始まりに原因がある。彼女は淋しかったから彼とつきあい出した。家を出たくて彼とつきあい出した。

恋愛関係破綻の原因がある

もし彼女が家を出たくて、家を出て一人で暮らしているときに恋愛を始めたのなら、このような恋愛破綻にならなかったかもしれない。

それは家を出るということで、そのときの心の葛藤を自分一人で解決しようとしているからである。彼女の場合、この恋愛は自分の心の葛藤を解決するための恋愛だった。そこに恋愛関係の破綻の原因がある。

誰かを愛するために必要なこと

恋愛関係ばかりでなく、どのような人間関係であっても、自分の心の葛藤を関係の中に持ち込み、その関係の中で解決しようとするときに、その関係は破綻する。

例えば深刻な劣等感のある人がいる。その人が、皆から素敵と言われる人と恋愛をしようとする。これが自分の心の葛藤を恋愛で解決しようとしているということである。

彼女の恋は自分が安心するための恋愛である。不安を動機とした恋愛である。欠乏動機からの恋愛である。

こういう場合、そのときだけを取ると恋は実ったように見える。しかし決して本当には実らない。

表面的に恋が実っているようでも、本質的に実っていない。必ずすぐに破綻が来る。「純粋な本来の愛は生産性の表現であり、配慮、尊敬、責任、知識を意味している」

つまり生産的な心構えのない人に愛はない。生産的な生き方をしている人にしてはじめて人を愛せるのである。

さらに「誰かを愛するということは、自らの愛する力を実現することであり、集中することである」と言う。

恋愛には欠乏動機からの恋愛と、成長動機からの恋愛がある。この二つの恋愛を区別しない人は、心を見ない人である。

「良い子」が社会的事件を起こすと、「なぜあの『良い子』が?」という新聞記事と同じことである。その子は恐怖感から「良い子」を演じているだけである。欠乏動機からの恋愛は、依存症的恋愛関係になることが多い。

よくない恋愛をしている人ほど、その恋愛にしがみつく

恋愛は「結婚したから恋が実った」などという簡単なものではない。成熟した愛でない限り、愛の関係が続くことはあり得ない。

退屈しているから始まった恋愛や結婚はまず破綻する。彼女はこの恋愛を始めたときに、退屈という実存的欲求不満から、自分の衝動を抑えることができなくなっていた。

実存的欲求とは生きがいとか、生きている意味とか、生活の張りとかいうものである。もしこのときに彼女が何か自分の人生に目的をもっていたら、この上司を追いかけなかった。

しかし彼女はこのときに退屈していた。また自分の人生に目的をもっているときに始まった恋愛なら、そう簡単に破綻しない。

またもし彼女が好きで結婚していれば、別れるときにはスッキリと別れることができる。惨めな思いをすることはない。屈辱を味わうこともない。

別れることがどんなに辛くても、先に進める。退屈しているから始まった恋愛や結婚、それは人間関係依存症に陥っていく。

人間関係依存症、つまり憎しみがあり、惨めであるが、なかなか別れられない。相手と別れたいけど別れられない

アルコール依存症と同じである。お酒をやめようと思ってもやめられない。この恋愛の破綻はちょうどギャンブル依存症になる人が、「退屈していたから、ギャンブルを始めた」と言うのと同じである。

彼女の場合、自分の心の葛藤を解決するための恋愛であった。そこに破綻の原因がある。 彼女がもし家を出たくて、家を出て心理的に自立して一人で暮らしているときに恋愛を始めたのなら、先にも書いたように、この恋愛は破綻にならなかった。

むずかしく言えば、自我同一性(アイデンティティ=これが自分だという実感)を確立しないままに恋に陥ったことが破綻の原因である。

どのような恋愛でもそれには様々な困難が伴う。自我同一性が確立すると欲求不満耐性度が高まる。いろいろな困難にも耐えられる。

自我が未確立な状態で、たまたま出会った人を好きになり、その人を追いかけて恋愛になっても、その恋愛は本質的には決して実らない。

男と女の関係はただでさえトラブルが起きやすい。ましてお互いに情緒的に未成熟な場合は、ことさらにそうである。

心理的に成長できない男性は何も要求をもたない女性を求める。逆にそのような女性は無条件で頼れる男性を求める。

そしてお互いに、自分が心に葛藤を抱えているということを意識していない。こうした関係は、表向きは男と女の関係であるが、内容的には男と女の関係ではない。

双方が相手に看護師さんや医師を求めている。それでいながら自分は患者であるとは思っていない。

患者と看護師さんや医師の関係なら続くかもしれないが、大人の恋愛でこれは続かない。この恋が破綻した両者の心理的背景は何か。

まず夫が抱える心理的問題である。夫の隠れていた自我同一性の危機が、不倫という形で表面化した。

次に妻が抱える心理的問題である。小さい頃の養育者との愛着関係が不安定であったのだろう。不安であれば、今の人にしがみつく。とにかく振られるのが怖い。

だから彼女は今の関係にしがみつく。彼女が「しがみつかない生き方」をするためには不安定性愛着の解決が先決である。

虐待されても、浮気されても、なぜ別れられないのか?三十歳の妻と三十四歳の夫。「主人は、公認の仲にして欲しいと言うんですね」。女の人とは今は別れられない。

私さえ承知すれば生活も壊さない。私次第と言う、そこで悩んでいる。

愛人は同じ会社の女性二十二歳

彼女はその女性のところに電話した。結婚しなくていい、同棲でいい。少しの間公認にしたが、そうしたら朝の五時半から電話がかかってきて、夜中にもかかってくる。だんだんエスカレートしてきて、会って帰ってきて夜電話がある。

私が出ると切る、主人が出るまでかける。そんなことが週に三回くらい。カレン・ホルナイは自己蔑視している人は虐待されることを許すと言うが、その通りである。

彼女は夫が自分を虐待することを許している。彼女は別れたくはない。家に帰ってきて、黙っている。主人は機嫌が悪い。

こっちがいい顔をしていないと機嫌が悪い。アルコール依存症の人がアルコールに依存するように、彼女は彼に依存している。

『Power and Personality(権力と人間)』という名著を書いた政治学者のラスウェルは、アルコール依存症は実際政治家の職業病であると述べた後で、「絶えず自我に対する低い評価を持つ人は、この酒という妙薬に一再ならず頼るという事実がある」と書いている。

アルコール依存症の人と同じように人間関係依存症の人も、「絶えず自我に対する低い評価を持つ人」なのである。さらに、彼女は彼に異常な価値を与えている。これが人間関係依存症の一つの特徴である。

こういうことになった原因を聞いたら、彼は「お前に色気がない、ズボンをはいているのが嫌だった」と言う。

さらに彼は「彼女はスカートをはいていて色気がある」と言う。「彼をそのようにしてしまったのは私」という言い方で彼をかばう。

ノーマン・E・ローゼンタールは人間関係依存症の一つのタイプとして「愛の幻想にとりつかれている」ということを挙げている。

依存心や自己蔑視から人間関係依存症になり、そこから抜けられないために人は、何と多くの耐えなくていい屈辱に耐えることだろうか。

彼女は九歳と七歳の子供のことで、自分が育てていく自信がなかった。しかし本当は子育ての自信がないのではなく、誰にも依存することなく生きることを恐れているのである。

人間関係依存症のままで生きようとする限り、この屈辱に耐えなければならない。夫は社内預金でもおろして、彼女とどこかに行ってしまうのではないかと不安である。

アルコール依存症の人が酒なしで生きることを恐れているように、この奥さんは彼なしで生きることを恐れているのである。

この恐怖ゆえに彼女は、自分が折れて解決しようという姿勢になる。彼女は働く自信がないといいながらパートには出ている。

働いて子供を育てる自信がないというのは噓で、一人で生きることが怖いのである。

ひきこもりとは、部屋にひきこもるから、社会に出られないと解釈されるが、社会に出られないというよりも、今いる家族と関係が切れないという面があろう。

ひきこもりは家族と依存症的関係にある。家族は嫌いだけれども家族と離れられない。そこで家の中で家族とかかわらないで、家族と一緒にいる。

ずるい人に騙されやすい人の心の中

もう一つ具体的な例を考えてみたい。彼女は、「夫の気持ちは、愛人からこちらに少しずつ傾いてくるのではないかと思う」と言う。さらに「だんだん良くなると思う」と言う。

「だんだん良くなると思う」という言葉は、「だんだん良くなって欲しい」という彼女の願いである。

彼女の「だんだん良くなると思う」という解釈は、「だんだん良くなって欲しい」という願いを 外 化 しているにすぎない。「外化」とは現実の相手を見ているのではなく、自分の願いを相手を通して見ていることである。

この奥さんは優しい女を自任しているが、実は他者否定的な女性である。他者の現実を見ていない。

「夫はある意味で優しい」と彼女は言う。「相手を傷つけることをしながら、なぜ優しいのだ?」と聞くと、「夫は別れたいと言いながら、一方的に子供や私を置いて出ていかないから」と言う。

夫は優しいと言う彼女の解釈は外化

つまり「夫が優しくあって欲しい」という彼女の願いを、夫を通して見ているに過ぎない。

目の前の現実のその人を見ていないで、心の中の憧れの人を目の前の人を通して見ているだけである。心の中で起きていることを現実と見なしてしまう。それが外化である。

現実の夫は優柔不断で、別れるのにも、嫌われずに別れようとする無責任な男に過ぎない。
別れるのにも、自分は良い人なのだということを相手に印象づけようとする。

そのように説明すると、「でも、俺は冷たい人間だから俺と一緒にいたらお前がかわいそうだと言うんですよ」と矛盾した反論をする。

冷たい人間なら「お前がかわいそうだ」とは思わない。この彼の言葉が、別れに際して自分の価値を高めようとする、最も安易なずるい方法であることを彼女は理解できない。

彼は、他人にかこつけて自分の要求を通そうとするずるい男に過ぎない。「俺はお前を幸せにしてあげられないから、別れる」と言う。彼はいつも相手に責任をかぶせてくる。

彼女はなぜこのように冷たく無責任な男を「優しい」と言うのだろうか。それは先にも説明したように外化の心理によるものであるが、彼女自身が自らを 欺いているからそうなるのである。

彼女は自分が分かっていないから、相手が分からないのである。外化という心理過程は、恋が実らない重要な心理法則の一つである。

理想の人が見つかったなどというのはこの心理である

熱しやすく冷めやすいのも同じである。自分が深く求めている人がいて、ある人をその「求めていた人」と見なすことで熱する。

しかし現実にはそのような人はいないからすぐに冷める。自分の憧れが強すぎて、ある人をその人と見なしてしまう。その人と見なして自分の深い依存の欲求を満たそうとする。

自分のわがままを満たしてくれる人を求めている。いい歳をして、無責任な子供時代のような世界を自分に与えてくれる人を求めている。

それを「あの人」が与えてくれると勝手に思い込み、熱を上げる。熱しやすく冷めやすい人は、小さい頃自分にとっての重要な人との同一化に失敗しているのであろう。つまり心理的に成長できていない。

熱しやすく冷めやすい人の恋が実らないのは、心理的に外化するからである。自分に都合のいいことを言う人を信じてしまう。だから男も女もよく騙される。

淋しくてしかたないから恋愛し続ける

外化は他人をどう見るかというときに、起きてくる心理過程である。あの人が「私を救ってくれる存在」であって欲しいと願いをもつと、その自分の願いを相手を通して見る。

つまり相手は「私を救ってくれる存在」となる。現実のその人とは関係なく、ある人を「魔法の 杖 を持った人」にしてしまう。

逆もある。現実のその人とは関係なく、ある人を「許しがたい人間」にしてしまう。自分の心の葛藤を解決するために他人に、その特質を勝手に付与する。

この女性が気がついていないのは、彼女が勝手に夫に付与した「優しい人」という特質に彼女が反応しているに過ぎないということである。

彼女が勝手にそう決めただけである。彼女が勝手にそう決めて、彼女がそれに反応している。

「『愛』が孤独をかき消すために使われるときは、その愛は両人がいよいよ空虚を味わうという代価を払ってのみ、その目的が達成されるものである」

それだけ淋しいということである。「別れる」と言われると、その人にすがりつく。つまりそういう人は相手を本当には好きではない。

淋しさを逃れるために恋愛したり、結婚したりするから恋が実らない。実らないどころか逆に嫌いでも別れられない人間関係依存症になる。

結婚生活がイヤで仕事に逃げれば仕事依存症になる。何かから逃げたときにそれは依存症になる。

もっともつらい失恋の形

四十三歳の奥さん。結婚して二十年。夫に愛人ができて五年。相手は独身。「一週間に二日ぐらい行くんです。すると私も二人のしているいろんなことを想像するんですよね」

奥さんが夫の病弱なお父さんを苦労して世話しているのに、その間も夫は愛人と旅行に行く。 「こっちはこっち、あっちはあっちでうまくやろうとしているんですよ」

夫は家では開き直っているが会社では品行方正。信用がある。「とにかく私は離婚する気がないので、何とか別れてもらいたいと思いまして、主人が行ってしまうのはどうしようもないと思いまして、主人を怒らせないようにと、行くのを見過ごしたりとか、家にいる間は明るい顔をしたりとか、随分努力はしたんです」

けど時々いらいらして、抑えられなくなって、夜も寝られず食べられずと、うつ状態になる。
「なぜ別れないと決めているのか?」と聞いてもはっきりとした返事がない。

「向こうから会社に通ってもらってもいいと言ったんです」と言う。アメリカの著名な精神科医ジョージ・ウェインバーグが、「関係さえうまくいけばあとはどうでもいいという前提に従って、相手が自分をひどく扱うのを許してはいけない」と言っている。

つまりそうすることで、その関係そのものが不幸の原因になるというのである。彼女はこの夫との関係を維持することで自分で自分を軽蔑するようになる。

そして毎日が憂鬱になり、その悲しげで恨みがましい声と顔で周囲の人々を自分の都合いいように動かそうとし始める。

これは依存症的夫婦関係である。依存症的恋愛関係とは、好きではない人と別れられない関係。憎んでいる人にしがみついている。

傷つけあいながらも離れられない関係というのがある。会うとお互いに傷つけあってしまう恋人達がいる。

そんな関係になっても女は男に会いに行く。そしてまたいつものように傷つけることを言い合っててしまうとする。

家柄に劣等感をもっている女と、学歴に劣等感をもっている男とが恋愛をする。そして女は高学歴の男の話をして男を傷つけ、男は家柄のいい女の話をして女を傷つける。

お互いに直接的に文句を言えない。こうして人は隠された憎しみをもつ。最後に、人の不幸を願う人間になっていく。

劣等感をもった人が優しくなるのは、相手が不幸になったときだけである。容貌に劣等感のある女性がハンサムな男性と恋に落ちた。彼女はその男性を好きだと思っている。

しかし、彼女が恋に落ちたのは彼女の劣等感が原因である。そして失恋をした。彼女は苦しみもだえた。

それは彼が、彼女の価値の身代わりをしてくれる人だったからである。この失恋は失恋の痛手だけではなく、価値剝奪の痛手でもある。それは失恋の痛手よりも大きい。

あなたは私の深刻な劣等感を癒してくれたので、私はあなたに恋をした。孤独に耐えられなくて恋愛する。孤独である以上相手を必要とする。

だから失望、 倦怠、葛藤があるけど離れられない。愛がなくなっても別れられない。自分の中の幼児性を満足させるために、相手を必要とする。

例えば自分のナルシシズムを満足させるために相手を必要とする。

また自分のナルシシズムを満足させてくれたので、気持ちよくなり、相手を好きになる。

つまり褒めてくれたので、尊敬してくれたので好きになった。自分の深刻な劣等感を不健康な形で癒してくれたので好きになった。

それに気がつかなければ先に進めない。人間関係依存症では、相手がいては生きられないのに、相手なしには生きられない。嫌いだけれども離れられない。

お酒がなくては生きていけないが、お酒があったら生きていけない。アルコール依存症と同じである。それは先に進めない関係である。

間違った人に尽くしている。 恋のはじめは傷つけあわない

しかし劣等感のある二人はいつしか傷つけあうようになってしまう。 現実を受け入れられないから苦しい心のまま生きている

「やはり今まで完成してきたものが、これから幸せになれるとずっと私はそう思って乗り越えてきたから、それを捨てるわけにはいかない」

彼女は夫に失望、倦怠、葛藤があるけど離れられない

「私は帰ってくると信じていますから」と繰り返す。帰ってこないかもしれないと言っても、「ただ信じてきたから」と繰り返す。

彼女は本当に信じているわけではない。信じたいということを、「信じる」と言っているだけである。これも外化である。

心の底ではそれを知っている。しかし「信じる」以外に、生きる道がないだけである。「信じる」ことで幻想を満たしているだけである。

新しい生活を始める勇気はない。その決断はできない。今の生活を変えるエネルギーはない。かといって、現状が耐えられるわけではない。現状は耐え難い。

ではどうするか。実は、どうにもできない。彼女も心の底では、このままではどうにもできないと分かっている。この心の底の「どうにもできない」という嘆きが、「信じています」なのである。

彼女の「信じています」は訳すと「助けて!」という叫びである。それなのに、周囲の人は「信じています」を言葉通り、「信じています」という意味にとるから、「この奥さん、どこかおかしい」となってしまうのである。

「信じています」という言葉を言葉通りとるから、「バカねー、帰ってくるはずないじゃない」となる。

そして周りの人は解決策をアドヴァイスし始める。すると彼女は「助けて!」と言っているので、アドヴァイスを求めているのではないから、彼女と周囲の人との間には行き違いが生じてくる。

そこで周囲の人は「やってられない」と彼女から離れていく。夫との関係でも「ただ私が騒いだから」と自責の念に駆られている。すでにこの自責の念が彼女の心が病んできてしまっている証拠である。

夫への憎しみや攻撃性を自分に置き換えているだけである。このまま関係が続いたときには彼女は老後に夫に 復讐 をする。

「やがては帰ってくると本当に信じているんですよね」と彼女は口では言う。しかし心の底では信じていない。先に述べた外化の心理である。

もし本当に信じていれば、これほど何回も「信じています、信じています」と言わない。本当に信じているんですよね」とは言わない。

もっと静かな言い方である。信じられないから自分に信じさせようと繰り返し、「本当に信じているんですよね」と言っているだけである。

失恋も離婚もその背後にある心理的問題の象徴でしかない

よく離婚裁判で性格の不一致ということが言われる。しかし、性格の不一致による離婚などまずあり得ない。それは未成熟なパーソナリティー間の葛藤である。

性格の不一致というのは情緒的未成熟とか心理的成長の挫折等々の合理化に過ぎない。 性格の不一致は当事者の心理的未成長を隠すための口実である。

離婚や失恋においては、彼らの今の行動だけが問題なのではなく、その後ろにある広範囲な未解決な心理的問題が原因である。

広範囲な未解決な心理的問題を人々が抱えていることを認識しないと、当事者の人間的成長への次のステップがない。

性格の不一致等と合理化をしていると、トラブルが人間的成長のチャンスにならない。 心理的に自立できていなくても恋の情熱はあるが、親しさを築けないのである。

「子ども時代の数年間を通して形成され、それ以後変化なく維持される場合が多いため、現在の個人の行動は彼のおかれている現在の事態からではなく、数年前の彼の様々な経験から説明することができる」

まとめ

恋愛関係のトラブルは、好きとか嫌いとかいうよりも、お互いの未解決な心理的問題が恋愛を通して表現されてきているに過ぎない。

恋愛の場合、何事も好きとか嫌いとかいうことで解釈してしまう。しかしそれは間違いである。

別れないことをまだ好きだと解釈する。好きなのではなく、依存心が強いだけである。恋愛も、お互いの心の問題が、関係をうまくいったりうまくいかなかったりさせる。

それは酒がやめられないアルコール依存症の人に、「まだ酒が好きなのだ」と言うようなものである。

アルコール依存症の人は、依存症になった段階では決してお酒が好きではない。依存心が強いままで大人になり、恋愛をすれば依存症的人間関係にならざるを得ない。

男と女の愛のトラブルと考えられているものは、パーソナリティーの発展段階の問題である。

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