処女非処女論争は数ある下ネタの中でも最強最悪の下ネタだ

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処女を重んじることが男女にとって無意味になる。

「処女非処女論争」は、数ある下ネタの中でも最悪の下ネタだと思っています。

下半身の話となると目を輝かせ、身を乗り出し「なんぞ、なんぞ?」と問い迫るタイプの男性が、この処女非処女論争の話題にさしかかると嫌気呼吸が激しくなり、さらには嫌悪な表情を隠そうともせず、無口になって離れ去ることが往々にしてあります。

以前に私が、何気ない話をしている席で、場の空気を読めずに会話のきっかけとして処女非処女論争の話をしたため、知り合いの一人と交友関係が悪くなったことがあります。

いやらしいほどに激しい「どぎつさの尺度」で言えば極めて「たわやかな部類」に入るのに、これほど場の雰囲気を壊し、多くの男女の感情を不快にさせる下ネタは他には類はないでしょう。いわば、最強最悪の下ネタなのです。

これほど嫌われるという裏には、何があるのでしょうか。

処女非処女論争をしたがる人などいない

「絶対に何かがあるから面白い」、それだけの理由で掲載する記事のテーマとしての価値は十分だと思っています。その「何か」を突き止めて提示すれば自己満足も含めて面白い、というのが本音です。

処女非処女論争が敬遠される理由は、処女厨と童貞厨、そしてOEO思想処女厨(お互い同士しか知らない事こそが最高の幸せを味わうことができるという思想の男性)はどう違うか? 処女厨は結婚とセックスの関係に深く関係する概念なので、いわば純潔主義に相当するからだ。処女厨についてをさらに詳しく知りたいと思われる方は、処女厨は年収厨よりもはるかにメリットがなく非合理的な理由をぜひお読みください。

OEO思想処女厨は恋愛を軸とする思想概念なので、恋愛結婚主義と純愛主義、そして恋愛の一途主義を合わせたものである。すなわち処女厨とOEO思想処女厨は、生涯恋人なし、生涯処女、生涯童貞、生涯未婚という状態もあってよいと認める。

RLI というべきものがある。RLIは、結婚制度と貞操、どちらも要求する立場、つまり皆が妻となり、かつ処女であること、である。

RLIは、現在の結婚制度そのものを肯定する立場の思想なので、フェミニストをはじめとする家父長制否定論者はRLIを必然的に否定せざるをえない状況なのだ。また、RLIは、前述のようにA&B&C(処女厨と童貞厨、OEO思想処女厨)を含む性愛観だ。

処女厨とOEO思想処女厨では、ABCを肯定すべきかどうかはどちらでもよいのだ。 したがって、RLIとは違い、処女厨とOEO思想処女厨では、結婚制度が存在しない社会を肯定的選択肢の一つとして想定することができる。

処女非処女論争はテーマとして話題性に欠ける

上記の通りで、わざわざ処女非処女論争を探究したりと、改めて意識したがる人などほとんどいない、つまり話題としてのテーマとして相応しくない、と言わざるをえない。誰もが喜ぶ明るく大らかに話せるセックス特集とは真逆の、トラウマ的トピックをえぐっているのだ。

また、厄介なことにイデオロギー的背景が個人的な経験からくるトラウマや進化論的本能に加わってくる。

男女の問題といったら、人間は文化的鍛錬や教育の力でどうにでもなる、と考える文化論的立場が作動してくる。これは政治的立場というべきもので、男女の生物学的本性を否定してのことだ。

男性と女性の価値観には大きな違いがない

セックス観にも違いがなく、さらに性欲だって実は大差がないのだ。だからこそ、性行動について女性が男性のような思考、価値観、行動などにならなければ「自由」を享受していることにはならない。

どれほど見事に男権的欲望社会の術中にはまったことか。これは明らかに誤ったメッセージやこういった言説を真に受けて、「抑圧された不自由な処女」と周囲から思われたくないあまりに無理してセックスに乗り出す女性たちが増えた。

セックスを求めて結婚を先送りにしたい男性にとっては、自由な社会は至福の極楽であり、結婚を求めてセックスを先送りにしてきた女性にとっての苦悩の極みだ。こんな簡単なこともわからない哀れな女性が多すぎる。処女厨が熱くなるわけだ。

「別にいいじゃないか」、と思う人が大半かもしれない。とくに男性は。「女が勝手に誤解して、フリーセックスに協力してくれているんだ。こんなうまい話はないゼ。女も自由意思でこの風潮に乗っているのだから、誰も悪くないいんだ。女の機嫌とってりゃ楽して得して円満だろう!」と、すっとぼけたことを言うな、となる。

二つの理由がある。第一に、本当に円満にいくのか?男性並みに性欲が強くて、セックス好きで、非処女化することの損を補って余りある快楽を得て、それを常に求める女性ならば、自由にセックスするがいいだろう。そこに批判の余地など生じない。

しかし大多数の女性は、男と違って性欲処理の必要に迫られることはない。つまり、性欲にたいして慎重に判断できる動物なのだ。ならば、その強みを活かさない手はない。

女性が彼にセックスはお預けよ!としたままに男の誠実さを試しながら、最後に結婚に持ち込むという正攻法な手段が現代社会でも依然有効であるにもかかわらず、世の潮流に不安を覚えて彼氏ととりあえずセックスをしてみよう、または、自身で決めたのだから流されてみよう。

そういう女性にたいしては、「おい、ちょっと待てくれ、本当にいいのかい?ほんの少しでも考えてからでも遅くはないゼ」と知恵袋のURLを送る警告者がいてもいいだろう。

男性はセックスをして後悔はしないだろうが、半面、女性はセックスして後悔する頻度は意外と多い。これは必要のない無駄なセックスが世にあふれている証拠だからだ。下半身問題は、どう転んでも男性は得しがちであり、女性は損をしがちなのだが、女性が損をしないよう考えられた唯一有効な規範規約が、「貞操観念」である。

現在の社会は、それが崩れて男女非対称の不幸感が復活してきている。女性が大して運命を感じもしない男性からのセックス要求を遮断しようとするとき、貞操観念を口実にできる時代ではなく、さらに伝統的な貞操観念という技が使いにくくなったからだ。

貞操や純潔というと理想的な倫理的な理念のように聞こえるだろうが、再三強調しているように、これは道徳や善悪ではなく、損得も問題からの提示なのです。  恋愛と性の自由市場化に反対する保守的な人々が現代の日本には多いらしいが、自由それ自体を否定するのはまずありえない。

行きずりのセックスでも売春、買春でも乱交パーティーでも、本当にセックスをしたい者どうしならば自由にすればいい。自由が不幸の源なのではなく、自由を装った不自由が不幸の源だと思う。

売買春反対派は、売春、買春を「性的人格権の侵害」と表現して規定し弾劾したするが、セックスワーカーが高額の対価を得ているという事実をなぜか肯定的に評価しない。

売春婦は自らのエロティック・キャピタルを生活の基として堂々と運用しており、そして目的を適えているわけで、それができずに「性的人格権を侵害」をされっぱなしなのは、むしろ「タダでやり逃げ」されている素人の女性たちだろう。

性的人格権問題として弾劾すべき先は、自覚的な売春、買春ではなく、無自覚的な恋愛文化であろう。つまり男の本音を学び、理解できずに傷つく女性を多く生んでいる無責任な性愛至上主義者がむやみにセックスを称揚するのは、女性の性的人格権放棄の教唆であり、不自由化の幇助になる。

本来、性の自由とは、男にとっては「愛がなくてもセックスをする自由」、女にとっては「愛があってもヤラセない自由」です。

それが現在は、男女とも「愛があればセックスをスルべ自由」に一元化されているらしい。これは、一見男女の中間をとった公平な自由のように見えるが、実は男にとってはるかに有利な「自由」概念にすぎない。

つぎは、フリーセックス万歳ではすまされない第二の理由。こちらは男性の幸せにかかわる問題でなのです。

男の大多数が、症状の軽重はともかくとして処女厨であるということが、とりあええずのポイントになる。健康でありさえすれば何歳になっても新鮮な精子を射精できる男性は、結婚を急ぐという動機が薄いのが現状だ。

なればこそ、妻とするにふさわしい処女と出会うまで長期にわたり恋愛を決め込むのも「屁の河童なのだ。だからといってすべての男性がそれでいいと思っているわけではない。安定した家庭で信頼できる女性と長く幸せに連れ添いたい男性、自分と極端に年の違わぬ我が子と遊びたい男性、そういった「誠実な男性」も多くいるのも事実だ。

そして問題は、これらの誠実で高スペックな男子、原始的本能に左右されない文化的要素を持つ男性ほど、相手の女性に貞節を求めるという悲しいかな現実なのだ。

現在社会の文明を担う主力層の大半が処女厨であり、その中には結婚願望を持つ男性が想像以上にかなり含まれている。このことからいえいるのは、社会全体の発展のためには、処女が多数存在していなければならない、ということが結論になる。

処女が少ないと、不本意な結婚をする、また結婚を控える男性が多くなり、少子化が進み、社会全体の効率と幸福度が落ちてゆくのは目に見えて分かるだろう。

もちろん、女性自身が処女でいることを望んでいないなら、「処女が多数存在しているべ」などと独善的な押しつけでしかなくなる。性欲が強く、処女性など惜しくない女性がたくさんいるのは事実だ。しかし、やり逃げ被害を後悔する女性が多いのもまた紛れもない事実である。

その現状に照らせ合わせれば、女性の思うとおりに事が運べば処女率が上がる、というのは確実だ。ならば押しつけの必要もなくなる。現状あるがままを誰もが知ればよいのだ。イメージに踊らされることのない批判的思考力と知識を個々が身につければよいだけ。

これから先、いずれは処女厨本能が環境の変化に合わせて別の現われ方、表現の仕方をするようなり、処女を重んじることが男女にとって無意味になる時代が来るかもしれない。ただし、そのような時代になれば、現存の結婚制度が壊滅して、人間的情緒と価値観、恋愛観、家族観が根本的に変化した時代という裏づけになる。まぁ、かなり先のことになるだろうが。

たしかに「処女はモテる」という教訓は、性道徳的に、かなりの効果がある。恋愛市場で表面的な魅力がある処女がモテるとは言いがたい現状だが、結婚市場では紛れもなく逆である。

ということは、処女が増えれば、処女を敬遠しない誠実な男性が恋愛的強者となって、処女敬遠派のチャラ男どもを駆逐することになっていく。

つまり、恋愛市場でも本当に処女がモテるようになるはずなのだ。処女がモテるとなれば、現在、モテを重視するあまり競って非処女化している階層の女性ほど熱心に処女を守るようになる。性病も中絶も減っていき、幸福な結婚が増える、めでたい結果となるわけだ。

それにしても恋愛中には、男女、とくに男性はセックスせずに我慢できるのだろうか?

もちろんできるはずだと理想的には思う。性的接触は性器の挿入だけではなく、心身の本能を満足させる愛の確かめ方には、無数のバリエーションがある。

本来、子供を作る、子孫を残すのためになされるセックス(性器挿入)を、結婚もしない男女がわざわざ不自然なゴムまで付けてせっせとやること自体が律儀すぎるというか、変態的なのでは?

ケモノならぬ人間は、原始的な性器挿入以外の、文化的な性愛にもっと目覚めるべきだろう。挿入以外の文化的な性愛とは?

これはこの記事から相当にはみ出す理想的過ぎるテーマなので、次記事に回すことにする。

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